ペットロスとペットも家族だと思う考え方。
「猫を何匹飼ってるの?」
私が猫好きだという話をするとよくこう聞かれます。
すると私は「1・・12匹です・・・。」といつも答えます。
私のブログのサイドバー(旧ブログです)に貼っている猫の写真は12枚あります。けれども一番最後にいるセシリーはもうこの世にはいません。約1年程前に不慮の事故で亡くなりました。
セシリーのお葬式もしたし仏壇も作りました。1年という月日も流れました。けれどもなぜか11匹と言えない・・・言ってはいけないと思う自分がいるのです・・・。
前回の記事で猫の寿命について書きました。皆さんご存知のとおり猫と人間では寿命の長さが違います。イレギュラーが無い限り人間が猫を看取ってあげる事になるというのは理解していました。
いつかはうちの12匹も看取る事になるんだろうとは思っていましたがその時は突然で、さらに私にとって初めてのペットの死だったのです。
辛かった・・・悲しかった・・・苦しかった・・・。【喪失】【絶望】【慟哭】【後悔】などが同時に押し寄せてきたようで、頭がおかしくなりそうでした。冷たくなったセシリーを抱きながら嗚咽している妻の横で朝まで泣いたのを今でも覚えています。
会社に行く時間が来たので妻にセシリーを任せて出社しました。バイクで通勤していたのですがなぜかセシリーが横を走っている不思議な気配を感じました(今でも不思議に思います)。
仕事中もセシリーとの思い出が浮かんで悲しくなり、休憩時間に一人トイレで泣いていました(男なのに情けないですが・・・)。
常日頃から猫をたくさん飼っている私は、よく猫ネタで友人や会社の人からからかわれていました。この日も休憩中に「元気ないで~猫でも死んだんか?」と聞かれたので頷くと、笑いながら猫好きが聞けば発狂するような言葉で私をからかいました。
ペットを飼っている人にとって彼等彼女等は家族そのものです!それを分からない人間の多さに吐き気がしました。私はもうすでに退職しましたがその時ぶん殴ってやれなかったのを未だに後悔しています・・・。
アスラン「パパ!代わりに噛みちぎってやるよ!!!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ペットロスとは文字通り「ペットを失う事」である。ペットを失うと、様々な心身(精神的・身体的)の症状が起こる。これは、ペットと共に過ごす事によって培われた深い愛着・愛情が、突然に訪れるペットの「死」によって行き場を無くしてしまうことによって、引き起こされる症状だと解されている。もちろん、引き起こされる症状の程度については個人差が大きい。たとえば、子育てを終えた熟年夫婦にとってはペットが我が子同然の存在になっていることもあり、ペットを失ったショックもまた大きい。(wikiペットロス症候群より抜粋)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最初の数か月は本当に辛くて、あそこをこうしておけばこんな事にならなかったなど夫婦で後悔ばかりしていました。毎日が暗くて、残された11匹の猫たちと遊んであげる余裕もなかったです。
けれどもいつまでも悲しんでいてはいけない。残された猫たちも可哀想だし、なによりセシリー自身が私たちがずっと落ち込んでいる事を喜ぶ訳がないと思い、こう考えるようになりました。
いつかまた会える
仏教の六道輪廻の考え方には反しますが、私はそう信じています。
寂しいけれど11匹の猫たちもいずれその時を迎え、私や妻にもゆくゆくはお迎えが来るでしょう。けれどもそこには元気なセシリーやプルたちがいて、またあの頃のように家族みんなで楽しく一緒にいられる。そんな楽しいあの世を信じています。(ちなみに調べてみると私と似た考え方に虹の橋という詩がありました⇒虹の橋(詩)wiki)
「いつかまた会えるよ」
最後に遅くなりましたが、先日3/11で震災から2年が経ちました。改めて犠牲になられた方のご冥福をお祈りします。
またこの二年間、被災地もしくは避難された場所で輝かしい未来を信じて前だけを見て一生懸命生きてこられた皆様全員の幸せを心よりお祈りします。
Trackback URL